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2012年3月

慣れてしまうこと。外食や外遊びなど

慣れてしまうこと。
放射性物質のことで、すべてに「慣れてしまいたくない」と
思っている。
でも、心のどこかで「平穏な生活を取り戻したい」と思っている。
人によれば、それは「移住」とかいろんな形があると思う。

私たち家族は、去年の事故の後、島根県に移動した。
夫が仕事を再開することになり、
夫だけ東京に行かせることはできなかった。
夫のいない生活は(まあ、普段からあまりいないにはいないんだけど)考えられなかった。
いまも、恐怖の中、家族一緒ならと島根から東京に戻ろうと夜行列車に飛び乗ったことを思い出す。

だからといって、こどものことを考えると
こういう生活はどうなのかなと思うこともある。
あらゆることを考えながら、今も模索中です。

それだけに、いま東京にいるならば気をつけておかなければならないことは

放射性物質を吸い込んでしまうこと。
食べ物もだいじだけど、空気ってないと死んじゃうから。。大事。

現在、東京では、以前より原発からの放出は全くなくはないが、
大気中に漂っているものは、多少はあると思う。
すでに放出されて降り積もった「土ぼこり」や「花粉」などの影響。
風に運ばれてやってくる。
グラウンドの砂、人の動きや車などの進入などによって舞い上がる放射性物質の「ほこり」。
そういうものに一番注意を払わなければならないと思う。
これがあるから、自然と触れ合うことができないから、
いまだに心の片隅に「ある」気持ちがある。

それと、食べ物のこと。
水は、うちでの料理などには極力気をつけています。
人間の肉体のほとんどは水なわけで。
放出やら土ぼこりやらの不安があるうちは、水を買い続けると思う。

うちの家は、全く外に出てしまわないうちではない。
去年の夏頃から、散歩も行くし、公園にも行く。
公園はなるべく行く回数や制限をつけてはいるけど、
こどもというのは、連れて行ってしまったら制限をつけにくい。
砂場に行かないでほしいのに
いってしまう。
本当、ここを徹底できたらいいのだけど
そうもいかないことがある。
娘はさすがに7歳(小学校1年)なので、砂場に行くことはほとんどない。息子は、行ってしまう。

それだけにうちでは、うちで作るものに関してはなるべく気をつけなくてはと考えています。
外でたまに外食することもあるけれど、なるべく影響が少ないものを選んでいる。

たとえば、出かけてありあわせのものがなく、買い食いみたいなことをするときは、
なるべくシンプルなものを選ぶようにしている。
例えば、お菓子より、パンを選んだり、飴やこんぶなどにする。
パンは食パンやフランスパン。
脱脂粉乳などの影響が受けやすく、濃縮するものは避けている。

和食のお店よりもイタリアンを選ぶ。
和食のお店は、わりと、いろんな調味料がふんだんに使われていることもあるので
気になりだしたら、きりがないくらい。
たとえば、そば。セキュリティトウキョウさんの測定では信州なんかでも検出されていたし、
蕎麦屋の場合、そば、だし汁。
わさび(本わさびのところがある)。てんぷら(山菜や野菜)どうしても食べなきゃいけないときは、うどんを選ぶ。
とくに、こだわりの蕎麦屋とかは。。ちょっとやばそうですね。
わつぃ、蕎麦好きなので、本当に泣けます。。。
イタリアンならば、サラダ以外はわりとあんまり心配することがない。
麺からしてほとんど外国産だし(まあ、それはそれで問題だけど、外食はそもそもそういうリスクを覚悟してなければならないと、わたしは思っている)、キノコスパとか頼まなきゃね。
カレーとかラーメン屋とかは、頭が痛くなるので考えないようにしている。

でも、慣れって、本当に怖い。自分が、面倒でつい一歩はみ出してしまうと
芋づる式だ。
どんどん、慣れていく。
東京において、
屋外に行くこと、遊びに行く限り、食べ物でのケアや適度な運動、十分な睡眠で
隙を見せないように心がけるのは必須条件。
今日は、羽目をはずしちゃったって。
修正できるうちはいいけど、修正できなくなってしまったら。。。
それを考えると
慣れすぎないこと。
「やりすぎないこと」。
あと、気合!

それと、ただ頭でっかちになって「避けること」ばかりに意識を持っていって
本来の自分というか、目を向けるべきさまざまなリスクを見失わないようにしなきゃなーって。
思っては、います。。。
そんなわけで、
自分をたまに、ずったずったに切り裂きながら
あれこれと考えているかんじです。

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フツーって何?

えー、また前回の続きのようなもんです。

長女が生まれてからしばらくたっての話ですが
夫と長女と出かけるとき、なぜだかうちでは、わたしが荷物も背負い、
ベビーカーも押しというパターンでした。
長男を妊娠中に、また、そのパターンだったのでつい
「ねーねー、フツーのお父さんたちは、荷物もったり、ベビーカーすすんで押したりしてあげてるよー」
と。夫に言ったら
「フツーってなに?」
って言われてしまいました。また、夫が関係しているんですが。。
わたしは、言い返せませんでした。
へーへー。確かにおっしゃるとおりですよ。

フツーってそもそもなんなのか。そうでしたね。。。
そうは、思いましたが、荷物くらいモッテクレヨーと思いました。
何しろ、うちの夫。昔、北海道のトムラウシに二人で登ったときも、
日が暮れる前にキャンプサイトにつかなきゃいけんのに。
「ねー、お腹すいた。ザックからクッキーだしてよ」とこちとら、ヘトヘトながらも焦ってるのに
自分でクッキーぐらい出してくれてもいいではないですか?
荷物も、30キロくらい背負ってるから、いちいちおろすのも、うっとおしい。

と、グチはこれくらいにして。

小さいころから変人扱いされていたので、
そのころは、結構「フツー」に憧れていたわけです。
クラスで笑っても、一人だけなぜだか目立ってしまい、
みんなでわらったのにわたし一人反省文かかされたり。
中学くらいまでは、そんなことが多かった。

18に南相馬を出て、違う世界観を持った友人と出会うことで
自分は、自分しかない。
そもそも、フツーなんてつまらなすぎる。
軍隊みたいに、みんなが同じ格好やらポーズを取るなんてちゃんちゃらおかしい。
運動会の行進。みんな足並みそろえて歩かなきゃならないなんて
ほんと、かったるくて、わたしは、いつもいつも
あ、右足だっけ、左足だっけ、手は、どっちだっけ?
なんだか、行進するのが、右ならへするのがイヤでイヤでしかたなかった。

フツーでいなきゃいけないとだめなわけじゃない。
そもそも、みんな別々の人間であって
誰一人、おなじ人間はいないんだもの。
フツーのような、でくのぼう人形じゃなくていい。

平均的にできないとだめとか。よのなかいろいろあるけど、
そうじゃなくてもいい生き方っていろいろある。

だから、わたしが放射能のこと、はなすの、わたしにとっては、「自然」なこと。
他人が「あの人放射能?」と言おうが、どうこう言おうが関係ない。
自分は自分。
学校に「あなたみたいに、言ってくる保護者の方、いませんよ」といわれても
言わないからって、何もしないでいーーんかよ? と私は思う。
なんでかしんないけど、学校とか行政とか、社会のいろんなところで
「フツー」じゃないといけないみたい。
でも、わたしの言ってること、やってること、特に
犯罪的な「非常識」?とはちがうと思うけど。
そっち側にあわせて言えば
どこか、ずば抜けてお勉強ができることは、「フツー」じゃないと思う。

都合の悪いことは「フツー」じゃないんだろうね。。。


といっても、夫に「フツー」を例にしてしまったことで
揚げ足をとられて話をごまかされた気分が、いまだに続いている。
たぶん、「荷物もって」と一言でよかったみたいだけど。
とはいえ、、、気遣いの、性格の問題だろうと思っている(笑)










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別々の人間。

えー、あんま夫とのやりとりは恥ずかしいんですが。
それで思い出したというか、。最近よくあることを思いました。

昔、18年ぐらい前だったけかな。
うちの夫と同棲し始めたころ、なんだかお互いまだよくわからないとき、
考えの相違で
「君とボクとは別々の人間なんだからしょうがないだろ」と言われたことがあった。
同じように思いたくて、気持ちが伝わらなくて、悲しかったけど。
その言葉。そうなんだよね。だから、そうなんだよねって思ったことがあった。

ここで、ふと、今、思い出した。
私の大好きな漫画家山岸凉子せんせの『日出処の天子』のラストの
厩戸王子と毛人(えみし)のやりとりで、
毛人が
「王子 人とは もともと一人… なのです」
厩戸
「そなたは一人ではないではないか」「そなたは布都姫(ふつひめ)と二人!」
毛人
「いいえ わたしも 布都姫もそれぞれ一人です」
「王子のおっしゃっている 愛とは 相手のすべてをのみ込み 
相手を自分と寸分違わぬ何かにすることを指しているのです」
「もとは同じではないかと 言い張る あなたさまは わたしを愛しているといいながら
その実 それは… あなた自身を愛しているのです」
「その思いから 抜け出さぬかぎり 人は 孤独から逃れられぬのです」

別々の人間だからこそ、世界は面白いと思う。
でも、みんなバラバラでは、世界も進んでいくには難しいところもある。
どこか、学校でもそうだけど、
「これができないと」とかいろいろある。できないとだめなの? ってわたしは思う。
みんなと同じなのはうれしいけど、みんなおんなじではわたしはつまらないと思う。

なんで、こんな話なのかなというと、
最近、この放射能でつながった人間関係、または、放射能を気にする人をさらに人格まで批判してしまう話などを耳にしたりしたからだ。

ふと、放射能を気にしているってだけで、みんな今までのバッググラウンドはなしで
つながってる。
それはそれでいいと思う。ガレキや署名、脱原発。みんなでつながって大きな力にしなければ
ならないときもある。
でも、そのつながりだけで、みんなが自分と同じ考えとは限らない。
こどもとの接し方、食べ物の認識、金銭感覚、くらしてきた環境。
別々の人間なのだ。
いつのまにか、おなじような目的や、おなじような思いで、すべてとはいかないけれど
いろんな感覚をどこかで共有という、「そうだよね」をどこかで期待してしまう。

わたしは、南相馬にいたときから、変人で。学校でも変人。親からは宇宙人扱いされていた。
同じ考えじゃないと、異端者扱いされる。でもそれが、まあ、ここちよいところもあった。
性格的に明るいかったせいか。わたしが、クラスで仲間はずれみたいな子と遊んでも
批判されなかった。「あいつはちょっとおかしいから、べつにいいか」って。
わたしからすれば、面倒なことに首突っ込まなくて済んでいたかんじ。
(でもそれは、ある意味、逃げていたのかもね)

そのころから、かなり自分なりに疎外感があった。
で、別の土地へ行って、同じような考えの人間を見つけると、
いままでの自分の孤独から解放されたような気持ちになった。
音楽や、本、映画。。。もそう。
すごく、満たされたような気がした。
たしかに、全く別々では、人間関係はうまくいかない。
そのひとを、その人の本質をみつけることが大事なのではないかと思う。

それと、最近残念な話だけど、放射能を気にしない人が、
それも世間では
「みんなちがってみんないい」みたいなことを言っている人たちが
自分の中のグループ(所属している場所、学校、幼稚園)に、異端者がいると(教育などに関しての相違)、
あのひと、放射能だけでもうるさいのに、こどもの教育はなってない。。。
みたいにいっているケースを聞いた。

教育観が違うと、異端者になる。らしい。
おまけに、放射能がつくと、すげえ異端者になるらしい。

正直、いろんなことにおいて、全く別々(笑)では、困るけど、
放射能、原発反対だからとかだけで。
おなじグループだというだけで。
全てがつながっているという、押し付けってちょっと勘違いしてませんか?
って思う。

個人それぞれが、決めていかなければならない現在。
もともと、自分のことは自分で決めなければ進めない。
他人に決めてもらうことではない。
世間体とかね。
そのひとを、認めるというか、そういうの大事。
バッググラウンドを忘れていないか? と。時々思ってしまう。

認めたくないなら、そこにいなければいいし、きかなければいい。
それと、口先だけの「みんなちがってみんないい」みたいな八方美人面はどうかなと思う。
事実、そんな「ポエム」みたいに、日常はすすまないのだ。

そんなこといっても、私も八方美人ヅラしているときもあるし、
どういようもないなー。みたいなところばかりで、うんざりです。

わたしも、原町(南相馬)を出る前から、世間体とか家社会とかのしがらみばかりで
どこか自分というもの、存在を通り越して、
親が世間体を大事にしているのがとても嫌でした。
親にとっては、それなりに私が生きていける道を探してくれたのかもしれないけど。
なんだか、まとまりないな。
この問題も中途半端に続きます。


次回は、「フツーって何?」です。それでは。また。

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